咄本の解説

噺本

「はなし」「軽口咄」「落咄」と呼ばれる短い笑い話を集めた作品群。「咄本」とも書くが、ジャンルの総称名としては「噺本」、狭義に江戸小咄本を指す場合に「咄本」と区別されているようである。元和年間(1615-23)の『戯言養気集』以来、江戸時代を通じて1千冊以上が刊行された。

噺本の展開

噺本は、明和九年(1772)の『鹿子餅』を境として、大きく二つに分けられる。すなわち、前期噺本と後期咄本である。同じ噺本というジャンルに属していても両者の間には、多大な相違が見られる。

〈前期噺本〉元和〜明和(1615-1771)

前期噺本は、軽口本とも言い、上方中心に行われた。体裁としては、半紙本仕立てで五巻物が一般的である。初期のものは、主に御伽衆の手によるもので、代表的な作品として先に挙げた『戯言養気集』や、『きのふはけふの物語』、後代に多大な影響を与え、噺本の祖ともされる安楽庵策伝の『醒睡笑』などがある。いずれも知的で素朴な笑話が多い。延宝・天和・元禄頃になると、辻咄や座敷ばなし、などの話芸が盛んに行われるようになり、京の露の五郎兵衛、大坂の米沢彦八、江戸の鹿野武左衛門といった話しの上手を輩出した。笑話は読む物から聞く物へと変化し、軽口本も、次第に台本的な性格を備えていく。こうした速記本式の軽口本は正徳(1711-1715)頃まで出版されるが、次第に新板も少なくなり、元禄以後はもっぱら以前の軽口本を用いてその書名だけを変え、刊行するようになった。

〈後期咄本〉安永〜慶応(1772-1867)

後期咄本は、小咄本とも言い、江戸中心に行われた。体裁は、軽口本と大きく異なり、小本一冊が一般的である。後期咄本は、明和九(安永元、1772)年正月に江戸堀野屋から刊行された『鹿子餅』を契機とする。翌安永二(1773)年の『聞上手』とともに、小本一冊で、行数・字詰めもゆったりと読みやすくしたこの形式は、江戸で大いに流行する。折しも文運東遷の波に乗り、以後の咄本の中心は上方から江戸へと移る。

安永期になると、咄のオチの部分を「仕方」、すなわちジェスチャーで描いて表現した仕方咄のような絵と文双方楽しめる本が作られたり、文人達が作者として参加したり、咄会本が作られるなど、東西ともに質のよい創作笑話が発表された。後期咄本の全盛期ともいえよう。この頃盛んに行われた咄の会から、やがて専門の話芸者が生まれた。

文化・文政(1804-1829)期以降は寄席が興行化し、落語家の台本が、十返舎一九や桜川慈悲成など戯作者の咄本と並行して出版された。しかし笑いの質の低下や既存の素材の使い回しなどにより、咄本の魅力は徐々に衰えていった。

叢書

咄本の叢書としては、『咄本大系』(全20巻、東京堂、1975-79)が刊行されている。

(九州大学大学院  勝野寛美)

参考文献

『日本古典文学大辞典』(岩波書店)
『日本古典文学全集47 洒落本 滑稽本 人情本』解説(中野三敏・神保五弥・前田愛校注、小学館、1971初版)
『鑑賞日本古典文学34巻 洒落本・黄表紙・滑稽本』解説(中村幸彦・浜田啓介編、角川書店、1978)
新潮古典文学アルバム24『江戸戯作』(神保五弥・杉浦日向子(エッセイ)、新潮社、1991)
神保五弥『近世日本文学史』(有斐閣、1978)
武藤禎夫『咄本について』(文化講座シリーズ、大東急記念文庫、1961)