小城鍋島文庫の由来

一、緒言

小城鍋島文庫は、小城鍋島藩の藩主の家に、代々伝えられた和漢の古典籍および歴史史料を中心とした、総数約一万点におよぶコレクションである。

佐賀本藩初代藩主鍋島勝茂の長男として生まれた鍋島元茂は、生母の身分が低かったため、本藩を継ぐことは許されず、祖父直茂の隠居地小城地方とその家臣を譲られ、また、父勝茂の援助を得て、元和三年(1617)に初代小城藩主となり、その基礎を築いた。七万石を領するようになったのは、第二代直能の時代からであるが、江戸時代を通して、小城藩が佐賀藩三支藩の筆頭格として、政治文化面において常に重要な役割を果たしたことは周知の通りである。藩主は、初代元茂以下、直能、元武、元延、直英(なおひで)、直員(なおかず)、直愈(なおます)、直知(なおとも)、直堯(なおたか)、直亮(なおすけ)、直虎と、十一代にわたって続き、明治維新を迎えるが、この代々の藩主の中で文事、即ち学問や文学、あるいは諸種の芸術に興味を持ち、自ら文化面の活動に力を注いだのは、初期では初代元茂と第二代直能、中期では第六代直員の長子直嵩と第七代直愈だったと推測される。

小城文庫の集書が、代々の藩主によってなされたことはいうまでもないが、いまあげた四人が藩主であった時代に相当する初期と中期とに、比較的多く集まっていることが、その蔵書印等によって確認できるからである。ということで、この四人の藩主の文事をたどることを通して、小城文庫の和漢書の概要を見てみることにする。

二、四人の小城鍋島藩主と小城鍋島文庫の和漢書の概要

初代藩主元茂

初代元茂の集書は、和漢にわたる広いものだったと考えられるが、まず注目されるのは、祖父直茂から譲られた二本があることである。慶長期写の『平家物語』の奥には、直茂の署名が認められ、元茂の蔵書印も押されている。また、明版『鼎鐫増補攷正註釋書言故事紀林』には、慶長十六年の直茂の識語がある。
そもそも元茂に、文事への強い思いがあったことは、『元茂公年譜』に、「御一代文武の道御修行厚く、御多芸の御事、常人の及び奉る処にあらず」とあって明らかであるが、祖父直茂の薫陶も与って力があったというべきかも知れない。『年譜』には、木下順庵について詩文及び漢学を学んだことを始めとして、都合二十三種の文武の諸芸に師をとり、生涯学んだことが詳述されており、現存する慶長から寛永にかけての写本・刊本の多くは、そうした元茂の姿を髣髴とさせるものである。慶長古活字版『東坡先生詩』、寛永版『国華集』、同『仄韻』、また、明版『人代紀要』、同『武備志』、同『正史』等々は、詩文・漢学にいそしむ元茂を窺わせるに充分である。古活字版『枕草子』、同『徒然草』、同『沙石集』、写本『大鏡』、あるいは、近世初期刊の『青葉のふえの物がたり』、寛永九年刊『水鑑』、同十一年刊『犬之双紙』、同十五年刊『清水物語』等々の存在は、元茂の日本古典文学のみならず、現代文学への強い興味の程を物語っているといえよう。さらに、近世初期『観世流謡本』を蔵することは、謡曲の、また、近世初期写の『契茶数寄』は、茶道のたしなみを、慶長期写の『馬書』、寛永期写の『安騏集』、また、慶長九年刊『仮名安騏集』は、馬術の修練を、そして、明版『新刊 医林状元済世全書』、同『編註医学入門』は、医術への関心を、示しているに違いないであろう。元茂の深い文事への関心と、知的興味の旺盛さが、実は、そのまま小城文庫の基礎を築いたといって過言ではなかったのである。

第二代藩主直能

明暦三年(1658)、第二代藩主となった直能は、元茂同様、木下順庵の教えを受けると同時に、広く京都や江戸幕府の儒者達との交友を持ち、漢籍の蒐集にも務め、元版『孟子通』や、明版『説文韻譜群玉』等の貴重本を現在に伝えたことが注目されるが、直能の本領は、和歌の道にあり、自らの詠作とともに、多くの和歌の写本を残したことが特筆されるのである。十代半ばから飛鳥井雅章に師事し、和歌・蹴鞠・筆道を学ぶとともに、寛文三年四十二歳の折りには、北野の能化より古今伝授をも受けていた。直能の和歌への情熱は、はるかに武人の域を越えたものであったが、その彼にとって忘れられない出来事が二つあった。一つは、領内の景勝地桜岡を詠じた後西院の宸翰をはじめとして、親王・公卿・幕府儒員の詩歌・序跋を集め『八重一重』の一書を編んだことであり、いま一つは、九年の歳月をかけて『夫木抄』の類句を編み、大部の『夫木和歌類句集』を完成させ、天覧に供したことであった。筆道でも名を知られた直能が、自ら写した私家集『大江千里集』『斎宮集』その他の写本、また、近世極初期から中期にかけての、宮廷における御会和歌の写しが、比較的まとまって残されていることも注目される。これらの写本群が、小城文庫の歌書の中核をなし、文庫の特徴となっていることは確かである。

六代直員の長男直嵩・その弟直愈

直能の次に、和歌に情熱を注いだのは、六代直員の長男直嵩であった。病弱のため、藩主を弟に譲った直嵩は、五条前大納言為範の女であった母、静明院の影響が強く、三十一歳の短い生涯を文学一筋に生きたといって過言ではない。冷泉為村に点を受け、自撰家集『続田心和歌集』を編み、また、家中で催した『岡花百首歌合』の判者を勤めるなど、その和歌に対する傾倒はなみなみならぬものがあった。『鍋島御系図』では、直嵩を「御家文学ノ中興トモ云フベシ」と述べている。『叢桂館御詠』『直嵩公御詠集』など、多くの歌稿をも残しているが、彼の読書の広さを示す随筆『古今雑事篇』等々があることも注意される。母静明院の遺詠を集めた『松の志都久』もあり、その中には、母を同じくした弟直愈の歌も収められている。この頃より小城に歌壇が生まれていたことが推測されるが、そのことを示す嘉永安政期の歌稿『桜のひこばえ』も現存している。古典籍の中には、佐賀本藩の特色を示す書物も多く蔵されている。その一端を示せば、武士道の聖典『葉隱』、最後の朝鮮通信使の記録『津島日記』『対礼餘藻』『唱酬筆語併詩稿』、また、古賀精里とその子孫の著述、さらには、幕末佐賀藩の洋学熱を伝える和蘭兵法書をあげることができる。ただし、現存の古典籍は、残欠本等々が多く、必ずしも保存状況のよい文庫とはいえないことが残念である。

三、歴史資料としての本文庫の特色

次に本文庫の歴史史料の特色については、およそ以下の四項にまとめることができる。

その第一は、藩政運営や大名の動静に関する豊富な記録史料を備えていることである。天和から慶長期にかけての『日記』、第九代直堯、第十代直亮、第十一代直虎の在国、在府時別の『御次日記』などである。これらの「日記」類は、佐賀本藩にこうしたものが伝存していない現在、鹿島藩や蓮池藩の「日記」類よりも古い時代のものを備えていることもあって、藩領内の行政システムや、幕府および佐賀本藩と三支藩の関係性の分析に、極めて貴重なものであるといえる。

第二に、『罰帳』『郡方罰帳』(天和から安政期まで)の存在が特筆される。近世武家社会における罪刑の考察の上で好史料であることはいうまでもないが、同様の史料が多久家文書に見出されるのみという現状の中では、この史料群、とくに『郡方罰帳』からは、「犯罪」を通した当時の村落社会の実情も検証できるといってよいであろう。

第三に、島原の乱関係史料の存在をあげることができる。他の史料では得難い、陣立絵図や『於有馬之城手負討死帳写』『有馬陣兵糧渡帳』などの実戦記録類により、近世初期の軍制や軍事費のあり方が具体的に知られるようである。

第四番目に、明治二年から四年にわたる版籍奉還から廃藩置県にいたる史料が、比較的集中して存在していることがあげられる。その中心は財政史料、『諸役所諸品渡方其外銀米御遣方帖』『諸役所銀渡方帖』などであるが、全国的に研究が立ち後れている藩知事時代の「藩制」分析に欠かせない史料群といえる。また、朝鮮半島における鍋島家の土地経営や小城鍋島家が係った銀行経営に関する史料群も注意されよう。

四、謝辞

最後に、本小城鍋島文庫が、当主鍋島直浩氏の御厚意により、昭和三十五、三十八年の両次にわたり、佐賀大学に寄贈されたものであることを明記し、厚く御礼申し上げる。また、史料の内容については、九州大学大学院比較社会文化研究科の高野信治助教授、また、文化教育学部の飯塚一幸助教授に御教示を頂いた。併せて御礼申し上げる次第である。(平成十二年十一月 文化教育学部教授 井上 敏幸)